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肯定的な「どうでもいい」が人生を楽にしてくれる

ぼくは比較的ストレスフリーな生活をしてる。それは生き方がすてき〜とかリア充とかそういうのではなく、考え方としてだ。ぼくは不感症なのだ。ぼくはほぼすべてのことに関して「どうでもいい」と考えている。

それは否定的な…というよりも、肯定的な、前向きな「どうでもいい」だ。悟り世代とか言われそうだけど、この考え方になってかた圧倒的にストレスフリーになった。

今回の記事では肯定的な「どうでもいい」の効用に関して書いていく。

肯定的な「どうでもいい」は人間関係を楽にする

ぼくは人間関係にすごくドライだ。それはなぜかというと「どうでもいい」からだ。嫌われてもどうでもいい。好かれてもどうでもいい。なにを言われてもどうでもいい。誰がどうなろうとどうでもいい。

別にその人が嫌なわけでもないし、「死ね」とか思うこともない。ただただ、どうでもいいのだ。

あなたは道端の花がきれいに咲いてようと、そしてそれが枯れようとそこまで関心はないはずだ。「あー咲いてる。あー枯れてる」程度にしか思わないだろう。道端でミミズが干からびてようと「俺のミミズがあああああ!!うわあああああ」なんて錯乱もしないだろう。逆に「ミミズ…ああなんて愛おしい。このツヤ感。たまらない」なんて思わないだろう。

人間関係は「景色」と同じ

電車から眺める景色は常に移ろい、流れつづけていく。たとえそこからいい景色が見えようとも、数時間後には「今なに食うか?」の方が重要になっている。それが人間であり、人間なんてものはその程度のものなのである。

咲いては枯れる花のように、人間関係だって咲いては枯れる。いいときもあれば、悪いときもある。昨日の友が今日の敵になることもしょっちゅうだ。逆も然りだ。

乱暴な言い方をすれば「めんどくさい」ものなのだ。そんなもののために感情や意識を奪われることの生産性のなさよ。人間関係なんて花が咲き、枯れるのと同じようなものなのに、現代では「みんなに嫌われたくない。ハブられたくない。」のような強迫観念が強い。そしてそれで死ぬ人もいる。

残念ながら今の人間関係なんて数年後にはほとんど消えてるのだ。小学校のころの友人と今はどうなってる?ほとんどの人が連絡とってないはずだ。その程度のものなのだ。

つまり今関わってる人も、これから関わる人も「移りゆく景色のひとつ」でしかないわけだ。つまり、長い人生でみたらほんの一瞬で、大局からみたら「どうでもいい」ものなのだ。人生に対した影響はない。

嫌われたらさようなら。好かたらはいどうぞ。そうやって楽しむのも乙なものだ。相手の態度や解釈なんて、こっちはうごかせないから「どうでもいいからお好きにどうぞ」程度に付き合うと、人間関係のストレスは大幅になくなる。

肯定的な「どうでもいい」はお金を楽にする

お金だってどうでもいいもののひとつだ。現代では必要なものだから稼ぐし、使うけれど「金に執着」までいくとしんどいものがある。やたら守銭奴になったり、金稼ぎしかおもしろみを見いだせなくなったり、金がらみの問題も起きやすい。特に日本人は金への執着がすごい。

「金はどうでもいい」と思うようにならないとこんなストレスが身にまとう

  • お金を払ったのに満足できない
  • お金をもらってるから頑張らないといけない
  • お金を一生懸命稼がないといけない
  • お金を頑張って守らないといけない

と。

日本人にクレーマー気質な人がおおいのは金への執着が強いからに他ならない。「そもそも金払ったら満足いくサービスが受けられる」なんて保証は誰もしていないのだ。個人の思い込みに他ならない。というかサービス受けてるんだから払うのが普通なんだ。金は等価交換のためにあるわけだから。

逆にサービサーとしても「お金もらったんだから精一杯!!」なんてことを考える必要ない。満足の指標は100人いたら100人の解釈があるわけだから、そいつら全部満足させるとなったらキリがない。中には金額に明らかに見合わない満足度を求める人もいるのだ。

サービサーは「こんくらいまではやるけどこれ以上はやんないよ。嫌なら払わなけりゃええやん」くらいドライでいい。価値を決めるのは相手なわけだから、満足いかないから去れ!程度に思うと楽。

「金なんてどうでもいい」をやると遠慮なく価値受領、価値提供ができる

上につながるけれど金に対してどうでもいい(執着しない)となると、遠慮なく受け取り、遠慮なく与えることができる。

ぼくはものすごいおごられ上手だと自負してる。それにありがたいなあ…とは感じつつ、遠慮はしない。「お前にいくら使ったと思ってる!?」なんてあとで言われても「いや、自分で払うって決めたことやないの」だからだ。というかこういうセリフでる人って金に執着してる人だから「どうでもいい人間関係リスト」に入る。

そしてよくおごる方だとも自負している。人は選ぶけれど。でもそれは「おごってやってる」ではなく自分がおごりたくなったから。それで喜んでる人を見ると心地いいなって思う。たぶん、大多数のおごられた人は「タダ飯やっほい!」程度に思ってるんだろうけどそれも「どうでもいい」のだ。

見返りもどうでもいい。ただうれしそうだった事実で十分お腹いっぱいなのだ。

肯定的な「どうでもいい」は仕事やサービスを楽にする

仕事やサービスでもそうだ。基本的にそのサービスを宝にするのもゴミにするのも「受け手次第」だ。そこに関してはどうでもいいのだ。こっちが決めることではない。淡々とやるだけ。すばらしいサービスでも、受け手がゴミにすることは多々ある。逆も然り。

だから必死でがんばる!!みたいなプレッシャーも感じないし、お金も堂々とありがたく頂戴する。そして出来る限りの提供をする。もちろん、その価値を決めるのは自分ではなく受け手だからそこはどうでもいいとして。

  • ゴミにした人は「その人の価値受領の仕方が合わない」だけ。
  • 宝にして実績だした人は「その人の価値受領と活かし方がすばらしい」だけ。

こちらは淡々とやっていればいいわけだ。料理だって、いかにいい食材を使い、いいものを作ってもジャンクフードの方がおいしいなんていう人だっている。ワインだって、1本5万円のものとコンビニの安物の差がわからない人もいる

そんなのこっちでは調整きかないから、どうでもいいのだ。勝手に活かしてくれ…というどうでもいいスタンスが大事。

すべてのニーズを満たさないといけないのであれば、フルオーダーメイドのフルカスタムにする以外ないのだ。

肯定的な「どうでもいい」はどんな人とも対等になれる

どんな金持ちで、どんな肩書きを持ってても、どうでもいいから「それで?」という態度で望める。すごい人なんだーへー。ふーん。という感じだ。変に媚びることもないし、へりくだることもしない。というか本当の金持ちってその程度で怒らないしね。

実際ぼくと多少仲良くしてくれるお金持ちの方やすごい人はそんな感じ。とてもラフなのだ。ぼくの倍以上生きていて、収入だってずっとおおいけど。そういう人は尊敬できるなあ。

逆に自分より収入が低かろうが、立場も低かろうがダメ人間だろうが、過去がブラックだろうが、そこに対して偉そうにすることも、敬遠することもなくなる。それもどうでもいいのだ。むしろそんなダメ人間と呼ばれる人の話は超おもしろい。

シャブ中毒ですごいことになった人の話とか、逮捕されまくりな人の話とかめっちゃエキサイティングだからね。なんでそういうのが社会的に敬遠されるのかがまったくわからない。

マイノリティーと呼ばれる人に抵抗がなくなる

人間はマジョリティーに属する方が好きな生き物で、マイノリティーはいつだって敬遠される。例えばぼくはアトピーだけど、アトピーに理解のない人はやはりおおい。それと同じでなにかしらの障害や、性的マイノリティーだったりする人にこの社会はすこし遠い目で見てくる。

それによってなにも悪くないのに社会の片隅に追いやられてることが多々ある。

肯定的な「どうでもいい」はそういう人たちに抵抗がなくなる。なぜならどうでもいいからだ。そんなマイノリティーかマジョリティーかなんてどうでもいい。人生になんら影響しない。ぼくはもともと自分がマイノリティー側だから抵抗ないけど。

肯定的な「どうでもいい」は生きる場所を自由にする

愛国心というものは少なからず今の時代も残っているようだ。それはある意味いいことだ。ぼくももちろん日本は大好きだ。住んでて心地いいし、おいしいものもあるし。最高の国だ。

けど、ぼくは日本に対して「どうでもいい」と思っている。今住む場所にもそんなに愛着はない。(嫌いでもない)

もしなんかやばそうだったらそっこう移動する。別に生きていくためにそこにいるだけだから、それさえできればどこでもいいのだ。変に愛国心を掲げてたりすると、移動するときに腰が重くなる。だから「どうでもいい」と考えるのだ。

逆説的に考えて、国は国民ひとりひとりはどうでもいいと思ってるだろう。守る義務だって実際はない。権利は持ってるけど、義務はない。国民が勝手に「国が国民を守るのは義務」って思ってるだけ。

これって人間関係にもあてはまるんだよね。

肯定的な「どうでもいい」はノイズを消してくれる

最近は生き方に迷う人が増えてて、そして誰もが自信をなくしている。だからいい感じな生き方をしてる人に盲目的に影響を受けたり、お花畑状態に陥ってる人もおおい。

それでも「これでいいのか?」と疑い、いろんな人から影響をうけて結局どうしたいの?っていう自分軸のない人が大量増殖中だ。それもインターネット上に流れるどこぞの誰かの影響をうけまくりな人がめちゃくちゃおおい。

参照:ネットとは適度な距離をもつ方がいいということ。「自分事」にしすぎる人はしんどい|ヒキコモリズム井上|note

でもネット上に流れてるツイートやコメントなんてほっとんどどうでもいいものばかりだ。それはあなたに向けられてるものではない。そんなもの必死に読んで影響受けててどうするのか?自分のことは自分で決めろよって話なんだ。

だからすべて「どうでもいい」と消してしまおう。ぼくはフォロワーはそれなりにいるけど、ほとんどフォローしない。なぜならどうでもいいからだ。知りたいことは自分から取りに行く。いちいちタイムタインに流す必要性がない。

取りに行く情報以外はすべてどうでもいいノイズなのだ。そのノイズひとつひとつがあなたの時間を蝕んでいく。

どうでもいいノイズを消すと「すべて自分で判断」できる

そういうノイズを自分事として受け取ってしまう自分軸のない人は、すべての判断を最終的に人に委ねる。人に影響を受けるってことはどこかで判断の要素にその人の意識が介入するわけで、それは自分で判断したことにはならない。

だから自分軸のないノイジーな人は、いざ思う通りにいかなかったり、納得いかないことがあるとそのノイズを与えた人に対して怒りちらす。自分でノイズを勝手に受け取ったのに勝手に切れるのだ。おバカさん極まりない

だからノイズをなくしてしまおう。受信を限りなく減らそう。むしろ発信しよう。

そしてぼく自身そのノイズを減らしているし、いざなんかノイズがやってきてもほぼスルーだ。「ああどうでもいい」とワンタッチでミュートだ。

そうするとSNSもすごく快適になるし、欲しい情報を自分で調べる癖がつくからおすすめ。

肯定的な「どうでもいい」が人生を楽にしてくれる

まだまだいろんな例が出せるけど、とりあえずこんな感じだ。どうでもいい…という言葉はぼくらの人生を本当に楽にしてくれる。現代はSNSなどが発達したことで、無駄に誰もがいろんなところに敏感になりすぎだし、過干渉なのだ。

正直いうと、自分の人生に大きな影響を及ぼすものの数なんてなかがしれてるし、人間関係だってたかがしれてる。今身の回りにあるものいる人のほぼ9割が大きな目線でみて「どうでもいいもの」なのだ。

あなたは、その9割のどうでもいいものへ「どうでもいい」という感情をもつことで今重荷になってる9割を手放すことができる。そしてその空いたリソースを残りの1割の「どうでもよくないもの」へ投下すればいい

こういう言い方をすると冷たい人だと言われるが、それこそどうでもいいのだ。

あなたもこの肯定的な「どうでもいい」をうまく利用して、楽な人生を生きてみて欲しい。驚くほど軽くなるから。